睡眠

 翌週、萩野は出勤した。脚がまだ弱っていたため、車いすでの出勤だった。彼は土日の間にも記憶のサルベージに挑戦していたが、まだ戻ってはいなかった。

 彼は、国内でも有数の食品メーカー会社、「萩野食品」の三代目社長だった。今は弟と二人で経営をしている。祖父が企業した当初は、「暮らしを便利に、コンパクトに」というキャッチコピーを掲げてインスタント食品やチルド食品をメインに開発をしていた会社だった。それもそれで、今もなおロングセラー商品はあるのだが、時代を経て今最も力を入れているのは健康食品やダイエット食品だ。二年前(二年前の記憶はしっかりしていた)、ビフィズス菌や乳酸菌などの腸内善玉菌、いわゆる「痩せ菌」を効果的に増やすサプリメント商品を開発し、それが爆発的にヒットした。それをきっかけに、インスタント食品で落ち目だった萩野食品が再び注目され、「ダイエット食品の萩野」という形で世間に再認識されるようになった。今やドラッグストアやスーパーで萩野食品のダイエット食品が並んでいない店舗は皆無と言っていい。

 そして昨年の春ごろ、この流行に乗じて、善玉菌増殖サプリに続く新たなヒット食品の開発をしようというプロジェクトが立ち上がったのだった。次に全面的に推し出す商品を、開発部が一丸となって考え出すのだ。そこまでは憶えていた。しかし萩野は、それ以降のことは憶えていなかった。どうやら萩野の記憶はそのあたりから、つまり昨年春ごろから冬にかけての記憶がなくなっているようだった。

 会議室に入ると、既にスタンバイしていた幹部のメンバーが一斉に立ち上がり、萩野に拍手を送った。まるで棺の中に横たえられた死者がよみがえったかのようなお出迎えである。

「社長、お久しぶりです。お元気そうでなによりです」

 そう口を開いたのは商品開発部の 神崎 ( かんざき ) だった。

「まだ車いすだし、記憶も少し戻っとらんがね」

「どうか、焦らずに」

「うむ。しかし記憶が戻らないというのはモヤモヤするものだな。居心地が悪いよ」

 萩野は恥ずかしそうに頬を掻いた。

 その後の会議では試食会が行われた。商品開発部が魂を込めて開発したダイエット食品や健康食品がテーブルの上に並べられた。製作にかかわった社員のプレゼンを聞きながら試食し、幹部らは試作品を食べ、評価シートに記入をした。評価が終わったころには社員のお腹はいっぱいになってしまっていた。幹部はみな太っていた。入社当時はスリムだったのに、今では体重が三桁になってしまったという社員も珍しくない。いくらダイエット食品であろうと、こういった試食会が頻繁にあるためだろうと萩野は思った。一種の職業病と言ってもよかった。

 会議が終わり、満たされたお腹をさすりつつ萩野は社長室に入った。ソファに腰を下ろし、冬眠について考えをめぐらせる。

ひょっとして、冬になにかイヤなイベントがあって、それを回避するために冬眠したのではないだろうか。わからない。寒さが苦手というわけでもないし、逃げ出したくなるようなトラウマがあるわけじゃない。働きすぎて疲れてしまったんだろうか。本当に療養だけだったのかもしれない。萩野はそんなふうに思考をめぐらせたが、明確な答えは出てこない。

 弟が社長室に入ってきたのはそんな折だった。

 顔のパーツ自体は兄弟でよく似ていると思うのだが、弟の方は昔からこってりと太っていた。弟はおよそ萩野の二倍の体重があり、ダルマのように丸い。例の試食のせいで最近はそのお腹の膨張に拍車がかかっている。

 萩野は弟に尋ねた。

「なあ、どうして俺が冬眠をしたのか、お前は知っているか」

「表向きでは療養ということになっているな」

「その表向きっていうのはなんだ?」

「社員にはそう説明しているということだ。お前は身体が悪くて、治療の一環で冬眠をしていたことになっている。本当のことは俺と、秘書の石田しか知らない」

「違う理由があるのか?」

「まったく思い出せないのか?」

「肝心な部分が抜けているんだ」

「まあ、そうだな。じゃあ、これを見たらきっと思い出すだろう」 

 弟は棚の上に置かれていた写真立てをとって、萩野に渡した。それは社員旅行のときに撮った集合写真だった。弟によると、どうやら昨年の十二月に社員たちを何人か誘ってスキーに行ったらしかった。萩野の記憶にはない。

「あと、雑誌の取材依頼もきてる。受けておいたぞ。内容はまた書面でわたす。今週の水曜日だ。それと」

「なんだ」

「思い出したらでいいが、俺に対する報酬も忘れるなよ。お前がいない間の社長役は大変だったんだから」

 そう言って弟は社長室から出て行った。

 萩野は、それから写真を観察した。スキーウェアをまとった十人程度の社員がこちらに向かってピースしている。男女問わず全体的にぽっちゃり体型が多い。一見、おかしなところは写っていないように思えたが、しばらく観察すると萩野は気づいた。弟が二人写っていたのだ。前の方に、しゃがんだ弟と、うしろの方にもう一人、同じ体格だが服装の違う弟がいる。しかしそれが誤った解釈だということにすぐに気づいた。そして思い出した。自分がどういった理由でグッスリカプセルを利用したのかを。

Home へ