睡眠

 萩野は石田の車に乗って、自宅に帰った。家は街の一等地に建つ二階建ての洋風一軒家で、これまでは弟といっしょに住んでいたのだが、弟は三十歳のときにナンパして引っかけた娘と結婚して出て行ってしまった。それ以来、萩野はこの巨大な家でずっと独り暮らしをしていた。こういうこともちゃんと憶えていた。どうもグッスリカプセル使用前の何か月かの記憶がごっそりと抜け落ちているような気がした。

 萩野は洗面台の前に立ち、顔を洗った。鏡に映るその顔はやつれていて、冷蔵庫の中に放置してしおれてしまった野菜のように元気がなかった。だがその顔立ち自体は外国人のようにくっきりしており、精悍さを保っているのは確かで、しっかり身だしなみを整えれば、まだまだ渋めのイケメンで通るはずだろうと彼は思った。取材されても恥ずかしくはない。彼は取材が好きだった。

 洗面所を出て、ふと壁にかけられていたカレンダーに目を向けると、日にちを区切った格子状の枠を無視して、そこに太いマジックで「冬眠」と書かれているのを確認した。月は一月。ぺらぺらとめくると、二月、三月も同様に「冬眠」と書かれていた。カレンダーの隣にかけてあった電波時計の表示を見ると、今日は三月三十一日だった。つまり年明けから三月末までの三か月間、萩野はずっと「冬眠」をしていたことになる。

「冬眠?」

 そこで思い出したことがあった。

 実は萩野の友人に、グッスリコーポレーションの幹部をやっている男が一人いた。その友人から、「何年後かにグッスリカプセルで冬眠サービスを始めるかもしれない」という話をずっと昔に聞いたことがあったのだ。要はグッスリカプセルでクマのように一定期間まとめて睡眠をとることができるようになるかもしれない、ということである。ただ、現段階では技術的に可能ではあるものの、クリアしないといけない課題が山積みという話だったはずだ。筋力が衰えるのはもちろん、一時的に記憶が混濁する恐れがあり、安全性がまだ商品化の水準に達していないというのがその主な課題だったはずだ。それに冬眠でまとめて睡眠時間を確保したからといっても、その後睡眠が必要なくなるというわけではない。人間がいわゆる「寝だめ」ができないということは既に科学的に解明されている。

 今もグッスリカプセルに冬眠サービスはないはずだ。だが、昔から懇意にしているグッスリコーポレーションの友人に、数か月まとめた睡眠ができないかと無理に頼んだというのはあり得るかもしれない。だが、肝心の、なぜ冬眠をしたのかが思い出せなかった。なぜ一見メリットらしいメリットのない冬眠をしたのだろう? 萩野は首を傾げるばかりだった。

「思い出せない……」

 萩野は自然とつぶやいた。

 過去を思い出す手がかりとなりそうなものが家の中にあるんじゃないかと、できる限り探してみたが、見つからなかった。むしろまた自分の記憶にはないものが出てきて、萩野は混乱することになった。それはクローゼットを開けたときだった。

 広々としたクローゼットの中にあったのは、大量の衣服だった。ハンガーにかけられて、  洋服店のようにずらりと並べられている。全部男物ではあるが、サイズもSからXLまでそろえてあり、スーツなどの仕事着から寝間着を含める私服類も大量にあった。 

 すぐにでも洋服屋をひらけるくらいの衣服を目の当たりにして戸惑っていると、ポケットにしまっていた携帯電話が振動した。着信は、仕事仲間でもある二つ下の弟からだった。今日が萩野の起床日だと事前に聞いていた弟は、長いこと眠りについていた兄の様子が気になって電話をかけてきたようだった。

 会話の途中で、萩野は今しがた抱いた疑問を口にした。

「なあ、ちょっと聞きたいんだが。クローゼットの中に大量の衣服があるんだが、このことについて何か知らんか」

『ああ、そりゃ兄貴が買い取ったやつじゃないか』

「これも冬眠に関係しているのか?」

『いや、直接的には関係ない。それはCMで使った衣装だよ。夏ごろから放送されたやつだ。大勢の太ったエキストラが、萩野食品の商品を食べることによってだんだんとスリム体型になるって内容のCM』 

「CM?」

『しっかりしてくれよ、兄貴。開発部の社員が全員泣くぞ。それより、目覚めて早々で悪いんだが、来週の月曜の会議のあとに、新商品候補の試食会がある。こられそうか?』

「ああ、それは問題ないが……」

 萩野は不安な気持ちをぬぐえないまま、電話を切った。

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