睡眠

 萩野 (  はぎの ) がまぶたをゆっくりと開けると、淡い照明の光が彼の目を刺激した。視界はまだかすんでいて口の中はねばっこいが、頭は妙にすっきりしていた。タイミングよく覚醒できたのだろう。こういう日はよく仕事がはかどるものだ。

 次の瞬間、静かな機械音と共に正面の半透明の板が取り払われ、隔てるものがなくなった照明が直接彼の網膜を焼いてくる。それにしてもここはどこだ、と不審を覚えたのはそのときだった。ここは自宅のベッドの上じゃない。上体を起こそうにも、寝起きの身体は脳からの指令に対して鈍感で、全身が鉛になったように動かない。

 すると背の部分が美容院のイスのように起き上がり、上体が自動で起き上がる。

「おはようございます。気分はどうですか? 萩野さん」

 萩野の視界に現れたのは白衣を着た細身の男だった。冷静で抑揚のない、機械音声のような声。年齢は三十代半ばくらいだろうか。ぼさぼさの髪の毛に黒縁眼鏡が印象的の、いかにも研究者といった感じの男である。彼は無精ひげをぽりぽりと掻きながら萩野の顔をまじまじと観察してくる。

 萩野は周囲を見渡した。病室のような清潔感のある空間に、人ひとりが収まるくらいの大きさの円柱状のカプセルが四台ほど横たえられている。まるでスチール缶を大きくしたような物体だ。缶を縦にまっぷたつに分けたかのように、横たえられたカプセルの上半分は半透明の素材でつくられている。どうやら自分はこのカプセルのようなものの中で眠っていたらしい。

 カプセルの横にはデスクが置かれていて、コンピューターとデュアルモニターが据えられていた。男の正面にあるコンピューターは起動中で、そのモニターには複数のウインドウと複雑なグラフがまるで生きた蛇のように表示されている。

「ええっと、まあ……」

 反射的に発した声は老人のようにかすれていて、弱弱しい。萩野は自分の声に驚いた。

「身体は無理に動かさないでください。今、電極と点滴を取り外しますから」

 男はそう言って、萩野の頭のほうに手を伸ばして、電線のようなコード状のものに手をかけた。どうやら十本以上の電極が頭部にとりつけられていたらしく、男が引っ張るとそれらは雑草のように萩野の頭から抜けていった。萩野の頭を覆っていた白い穴だらけのキャップも同様に取り外されると、圧迫されていた頭髪がはじけるように飛び出してくる。彼は、それがいつもより伸びていることに気が付いた。

 男は言った。

「頭についたジェルを洗い流してからで結構ですので、このあと医師の診察を受けてください」

 その後、白衣を着た男性が二名ほど部屋に入ってきて、萩野の頭にこびりついた、固まったジェルを拭き取った。頭がきれいになった萩野は男たちによって車いすに乗せられ、部屋を出た。

 萩野は入院した人が着るような、浴衣のような淡い緑色の服を着ていた。医師もいるという話だし、もしかして自分は記憶を失うほど大きな病気を抱えているのだろうかと想像した。だが今いるここは病院という感じではなかった。廊下ですれ違う人はスーツ姿の若い男女が多く、病人やナースは見当たらなかったからだ。

 間もなく診察室に通されると、白衣を着た、肥えた男と対面することになった。ネームタグを首に提げており、それはその男が医師であることを示していた。お腹周りが達磨のように膨張した医師だった。彼は「気分はどうですか、萩野さん」と言った。まるでオペラ歌手のように深みのある声だった。

 医師は聴診器などを使って萩野の体調を診たあと、記憶に関するいくつかの質問をした。

「今はいつかわかりますか?」

「いつ……いつって」

 今はいつなんだろうか。萩野は即答ができない。

「ここがどこだかわかりますか?」

「いえ、その……わかりません」

「ということは、どういった経緯でここにきたかも憶えていらっしゃらないということですね?」

「先生、その」

「記憶の混濁が見られますね。予想はできていたことです。安心してください、我々の見立てでは、すぐに思い出されることでしょう。筋力も相当衰えていますから、無理をせず移動には車いすを使用してください。それと体調と記憶の様子をうかがいたいので、最初のうちは二日に一回の頻度で通院してください。詳しいことはこれから秘書の方にお伝えしますから。困ったことがあったらいつでも連絡してくださいね」

「……ええ、わかりました」

「なにがなんだかわからないでしょうが、できれば今回の利用で最後にしていただければと思います。このメニューはまだ商品化できる水準にはないんですから」

 診察を終えた萩野は待合室に移動し、秘書が来るまで待機することになった。ふと待合室の長テーブルの上にパンフレットが置いてあるのが目に留まる。それは「グッスリコーポレーション」のパンフレットだった。そこで、ここがどこなのかということだけは思い当たる節があった。ここは「グッスリコーポレーション」の研究所だ!

 グッスリコーポレーションは最新の脳科学を応用して「グッスリカプセル」を開発した大企業である。グッスリカプセルとは、簡単に言うと睡眠の質を落とさずに睡眠時間を任意に選べるようにしてくれる装置のことだ。

 脳科学の発展によって睡眠を通じた脳の回復メカニズムが明らかとなり、睡眠の周期や深さを自在に操れるまでに技術は進歩していた。グッスリコーポレーションはこの技術でグッスリカプセルを開発し、ごく短い睡眠でも脳を回復させたり、逆に眠りの浅い人でも深い睡眠に誘導させたりすることを可能にしたのだ。不眠症で悩む人や、逆に忙しくて睡眠を削りたい人などを中心に利用者が後を絶たないと聞く。

 さっきまでこのグッスリカプセルを利用していたのだということに萩野は気づいた。だが、なぜ自分がこのグッスリカプセルを利用したのかという動機に関しては思い出せないままだった。

 しばらくすると、待合室にスーツ姿の初老の男が現れた。秘書の石田である。彼は先代社長、つまり萩野の父親が今の会社を企業したときからの付き合いだ。萩野は、こういう身の回りのことはしっかりと憶えていた。

「ぼっちゃん、おはようございます。お久しぶりですなあ、よく眠れましたかな」

 石田は病衣をまとった萩野の姿を認めると、驚いたように目を丸くした。 

「うまくいったみたいですね」

「うまくいったとはどういう意味かな。実はなぜここにいるのか、俺はあまり憶えていないんだよ」

「はあ、やはり一時的な記憶障害がみられるようですね」

「教えてくれないか、石田」

「表向きは療養ということになっています」

「表向き?」

「着替えを持って参りました。サイズはこちらでよろしいでしょうか。よくわからなかったので何種類かお持ちしましたが」

 そう言って石田は、手に提げていた紙袋を萩野に手渡した。 

Home へ