アンダーソン博士の発明品

 磯部はそれからというもの、博士のビスケットを盗み出すことだけを考えていた。だがいくら考えたところで、現状では一筋縄ではいきそうになかった。

 アンダーソン博士の睡眠は二時間あれば充分なので、一日の研究が終わると彼は自宅に帰ってすぐ睡眠をとり、まだ辺りが暗いうちに再び研究所に出てくる。助手である磯部の出勤も、博士に合わせて午前四時だった。

 つまりそれだけ博士の監視の目があるわけで、その中で例の発明品の盗難に走るのは困難と言えた。それに、博士が自宅に帰り、監視が緩くなったとしても、結局はあの厳重なキャビネットの引き出しの中に保管されてしまう。

 隙ができても引き出しの鍵が開けられない。キャビネットを調べるには時間が足りない。そういうわけで、磯部がビスケットに触れる機会はなかなか訪れなかった。

 その日もいつものように、磯部は助手としての仕事を淡々とこなしていた。

 午前十一時になると、磯部は博士の昼食を作らなければならない。昼食のみならず、博士の食事を提供するのは助手である磯部の仕事だった。メニューは毎日、朝昼晩、すべてハンバーグだ。博士は子供の頃に食べた大好きなハンバーグ以外のメニューは受けつけなかった。だから、研究所の冷蔵庫の中には、三対七の牛豚の合いひき肉が常備されていた。牛豚の比率が少しでも違うと、博士は絶対にハンバーグを食べなかった。

 磯部は作り終えたハンバーグを皿に乗せ、博士のデスクまで運んだ。

「博士、ハンバーグができました」

「そこに置いておいてくれたまえ」

 博士は、磯部に研究者として評価したことはこれまで一度もないが、このハンバーグのことだけはずっと褒めていた。君は、ハンバーグを作ることにかけてはピカイチだね。これだけでも君を雇う価値がある。博士はそうやって磯部を称賛するが、これを皮肉で言っているのか、単純に料理の腕前を褒めているのか、磯部には分からなかった。

 磯部は言った。

「博士、あのビスケットはいつ使うんですか。テストには立ち会わせていただけますよね?」

「あれはまだ試作段階だからね。もう少し調整が必要なんだ」

 そのときだった。

「邪魔するぜ!」

 ぱりーん、とガラスが割れる音と共に、全身黒タイツの男が転がるように入ってきた。磯部は音のした方を見た。窓ガラスが割れている。どうやらこの黒タイツの男は、研究室の窓を何か固いもので割って強引に侵入してきたらしかった。男は手にナイフを持っている。

「七色の声と巧みな変装でどんな厳重なセキリュティもかいくぐり、狙った宝石は確実に、鮮やかな手口で盗み出す、怪盗グッナイ! ……に憧れて、五年前に泥棒に転職した三井だ。サインはお断りだぜ」

 ここで言う怪盗グッナイとは、数年前、爆発的にヒットしたドラマに出てきたイケメン大泥棒のことだ。グッナイに影響を受けたドラマ視聴者が、全国の宝石店やブランド品店に盗みに入るという社会現象まで引き起こした。ちなみにデビューして間もない池中君が演じた。

「グッナイというくせにこんなアフタヌーンから盗みに来るんだな。その潔さは認めてやってもいいが、それで怪盗が成り立つと思っているのならどうかしている」

「それにグッナイの正装は黒のタキシードですよ。なんですかその黒タイツ」

 博士と磯部の分析は冷静である。

「予算不足でな。脳内フィルターをかけて見てほしい。……ええい、今はそんなこと、どうでもいいんだ。お前があの有名なアンダーソン博士だな。テレビで見たことあるぞ。今日はお前の発明品を盗みにきた」

「生憎、我々はお前のような無能の相手をしている暇はないのだよ。今日のところは見逃してやるから、その壊した窓ガラス代を置いてさっさと出ていきたまえ」

「というか博士、棚を厳重にするくらいなら、窓の方ももう少しなんとかしましょうよ。こんなポンコツに一撃で侵入されては先が思いやられます。せめて強化ガラスにしましょう」

「そんな悠長なことを言っていられるのも、今のうちだぜ」

 すると三井は、無防備だった磯部の腕をつかんで自分の方へと引き寄せた。そして、洗練された素早い動きで磯部の両腕を後ろに組ませ、動きを封じ込めると、首筋にナイフを押しあてる。要するに三井は磯部を人質にとったのだ。

「ひっ! 博士! 助けてください!」

「こいつの命が惜しければ、今すぐ金になる発明品をよこせ」

「やだ」

「こいつの命がどうなってもいいのか?」

「いい」

 博士の、あくまでも人命よりも自分の発明品を死守しようとするその態度に、磯部は少し腹が立った。しょせん僕はただのハンバーグ製造機としか見られていなかったんだ、三井の腕の中で磯部はそうも思った。

「泥棒さん、どうか早まらずに聞いてください。白状しますと、奥のキャビネットに博士の発明品が保管されています。博士、出し惜しんでないで早くわたしてください。じゃないと僕が死んでしまいます」

「ばかもの! なにをバラしとる!」

「なるほど。じゃあ、それを今すぐよこせ」

 三井がナイフにぐっと力をこめると、磯部の首筋から少しだけ血が流れた。磯部が悲鳴を上げる。どんなに利己的な博士でも、それまで自分好みのハンバーグを無限に作り続けてくれた助手のあわれな姿を見て、良心が傷んだ。彼はしぶしぶ、キャビネットの引き出しの鍵を開け、中から例の箱を取り出した。

 三井はその箱を強引に奪い取った。 

「確かにいただいたぜ。おっと、動くなよ。俺が完全に逃げ切るまで、こいつは人質にさせてもらおうか。あばよ。アンダーソン」

 三井は磯部を人質にとったまま、風のように研究所から去っていった。

 アンダーソン博士は顔面蒼白になった。何十年と時間をかけて開発した人生大逆転のアイテムが、いま失われようとしている。ついでに上手なハンバーグを作ってくれる助手も。

 人嫌いで鎖国的な生活を送っていた博士も、このときばかりは手段を選んでいられなかった。彼は、研究所の固定電話で警察に連絡をした。

 私の大事な発明品が盗まれた。ついでに助手も人質にとられている!

Home へ